昭和44年02月03日 朝の御理解
御理解 第92節
「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」
これはお広前をあづからせてもらう、取り次ぎ者に対する、まぁ御理解だと思いますけれども。その中から私はここへ参ってもあちらに参っても、何処へ参ってもおかげは同んなじだと、けれども守り守りの力によって神の比礼が違うのぞと。神の比礼が違うのだということですね。いわゆる神様のひとつの勢いが違うのだと、おかげは例えば勢いがあるところであろうが、ないところであろうが受けられます。
けれどもその神の勢い、比礼というのはあのう魚がこう泳ぎます時に、ひれを立ててピッピッピッと泳いでいきますでしょう。あれを比礼というておられるということを聞いております。あぁいう一つの勢い勢いがこうあるお広前、そこで私はこの寒中修行をもう今日をもって、寒中修行は一応終わる訳でございますけれども、ま殆どが毎朝の御祈念に参拝された方達ばかりでございますけれども、そのうお互いそのう合楽のお広前でですね、いわばこういうひとつの比礼を感じるお広前で。
信心の稽古をしておるということが、私は有り難いということをお互いが分かって頂きたいとこう思うのです。例えていうと今熊本からあのう、お参りになっておられる、親子三人又は四人で、兄弟揃うて参って見えられる方があります。野田さんとそれは、熊本のある教会の総代をお父さんがして居られる。熱心なご信者さんです。けれどもですね、例えば熊本から何時間もかけて、しかもこの寒い中をですね、お参りをして来させる働きなんですいわゆるね。
例えばここでは福岡当たりから皆さん参って来るのは当たり前のようになっておりますけれども、どんなに考えても外の人が聞いたら、福岡から毎朝朝の御祈念に参ってきよるなんて言ったら、皆んな驚きます。勿論その方が熱心だからという事と同時にです、その人を熱心にしなければおかぬ、いわゆる神様の勢いと言うか比礼と言うものがここにはあるからです。ですからそう言う神の比礼が違うのぞとこうおっしゃる。神の比礼が違うのだ。合楽にかけられる神様の比礼比礼が違うのです。
そう言う例えば比礼のあるところで信心の稽古をさせて頂いた。いわば寒修行を完成させて頂いたということがです有り難いのです。例えば皆さんこんなに沢山集まっておられますけれども、これはもしどこどこであったら、恐らく寒修行なんかには出られなかったと、出られなかったと言う人が沢山あるんじゃなかろうかとこう思うのですよ。これは合楽だからこそこれが出来たんだということね。そういう特別な神様の働きのあっておるところへ、ご縁を頂いて信心の稽古をさせて頂いておるということにです。
ひとつ有り難いなと分からせて頂いて、私はその事にお礼が申し上げられて、信心の稽古をしていかないといけないと思います。そんならここにはまだこれだけの信者さんが、沢山の又熱心な信者も主だった信者さん方も沢山居られます。けどもその方達がなら寒修行が出来なかったと、そうすると神の比礼がそこまでは行き渡っていなかったということになる訳なんですけれどもね、私はまぁ極端な言葉でいうと落伍者です。そういう勢いがあっておってすらお参りが出来ないのですからね。
私はこれは落伍者という言葉はきたのではありませんけれどもですね、私はある意味合いにおいての合楽の落伍者だとこう思います。ですからそういう方達がですね、そのうそういう勢いに触れておりながら、触れてそれにあのう一念を燃やす事が出来ないということは、ちょっとその信仰神経がおかしいんです、と私はあの悟らせて頂いてですね、ならそういうここではもっというなら幹部というか、もっとおかげを受けておる人達が沢山ある中に、そういう人達が例えば寒修行に出て来られなかったという様な事は。
いろんな事情もございましょう。けれどもまぁそう言う意味合いにおいての、私は落伍者だとこう思うんです。ですから皆さんがどうでも落伍して良い訳じゃないのです。というてなら落伍者というのは、言葉が妥当ではないですけれどもです、そこに何かそこにピリッと来るものがですね、まぁ何と申しましょうかね、丁度どんな勢いがここに電気なら電気のここに電流が渦巻く様にあってもですね、こちらが枯れた木や枯れた心ではこれにピリッとも来ないようなもんですね。
ですから結局その人達の心が枯れて居るんだと、知らなきゃなりません。いやその人達は自分で今、自分の心の中に生きたものがないんだと悟らにゃいかんです。生きたおかげを頂いておればです、それこそ熊本のあぁいう遠隔地からでも、ピリッと合楽に触れるもんが何にかがそこにあったんです。ですからそこんところをひとつおかげを頂かしてもろうてですね、そう言う人達がもう落伍してしまっては詰まらんという、落伍者という言い方とはあのう外に妥当な言葉がありましょうけれども。
いわばそういう枯れかかっておる人達に、何にか勢いをもうちょっと与えるようなもの。これは私は寒修行でもさして頂いた者の責任だと思います。寒修行に参加させて頂いてこう言う生き生きとした信心をさせて頂いたら、こう言う生き生きとした比礼が自分の身の上にも、自分の家の上にも現れて来たといった様なものを、見せる以外にゃないと思うんです。だからこれでやれやれ寒修行が済んだというところからが大事なのです。だからそう言う人達の又手を引き合って、又お互いが励まし合ってですね。
そのいわば合楽のお広前に、こうして輝いて居ります神の比礼が違うのぞと仰る、違う程のひれいをですね、皆んなが受けられるような雰囲気とかおかげを、今後頂いて頂きたいと念願いたします。今日は最後のい」うなら仕上げのような日でございますから。寒修行の仕上げの日でございますから、皆さん私昨日申しましたようにね、恐らく一人一人が体験を発表される、誰にいわれても発表出来ると言うものをお持ちであろうと思いますけども、全部が全部というわけにはまいりません。
ですからまぁ例えていうと青年会から私今日は、喜朗さんに発表して頂こうと思います。それから壮年会から大和さんにお願いしたいと思います。それからあのう婦人会からあのう久富くにかさんにお願いしたいと思います。それから総代さん方は永瀬さんにでもお願い致します。最後に秋永先生に締くくって頂きましょうから、その間にでも今日はあそこでお茶粥が出来ておりますから、お茶粥があちらに出来たと言う通知があるまで、三十分か一時間かちょっとあの時間がございますから。
次々と立って五分づつでも十分づつでも結構ですからお話しして頂きたい、あまり長い話は一人取られると大変ですから、困りますからどうぞ5分か10分位にしといて、あのうまぁ寒修行中の信心を語って頂きたいとこう思います。と同時に終わりましたら次々お粥、茶粥さんを頂いてもらいたいとおもいますけれども、決して美味しいものでも皆さんご承知の、美味しいものでも旨いものでもないですけども。どうぞ修行と思うて頂いて下さいね。私これは合楽のですね合楽の信心の元です茶粥は。
もう茶粥と言うものを私共知らなかったら、私共は日干しになったかも知れません。と言う程に合楽の切っても切れないこりゃ食べ物でございますから、どうぞまだ初めての方は是非修行と思うて頂いて下さい。ははぁこういう食い物があったのとね、というようなそのう修行の積りで是非一杯でも頂いて下さい。沢山作ってありますから頂いて下さいませね。すぐにもどうぞお話が出来たらすぐ準備をして下さい。